東京地方裁判所 昭和42年(ワ)10230号 判決 1971年8月03日
原告 山寺寛司
右訴訟代理人弁護士 佐藤章
同 大森実厚
被告 横山乃
右訴訟代理人弁護士 森本正久
主文
被告は、原告に対し、金一九三万四、八〇八円およびこれに対する昭和四四年九月二一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
原告のその余の請求を棄却する。
訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。
この判決は原告勝訴の部分に限り仮に執行することができる。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 原告
「被告は原告に対し、金四六六万七、二五二円およびこれに対する昭和四四年九月二一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」
との判決および仮執行の宣言
二 被告
「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」
との判決
第二当事者の主張
一 請求原因
(一) 訴外山寺春吉は、大正一四年八月二〇日、訴外川嶋善作に対し、別紙目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を賃貸したが、昭和一六年四月一七日、右訴外川嶋の死亡により、その実子である被告が本件建物に対する賃借人の地位を承継し、同年六月二八日前記訴外山寺が死亡したので、原告が相続によって本件建物の所有権を取得し、賃貸人としての地位を承継した。
(二)1 ところで、本件建物の賃料は、昭和二八年一月、一か月金三、三三三円となったが、その後の経済事情の変動もあり右賃料は次のとおり増額するのを相当とするに至った。
(1) 昭和三一年八月一日から昭和三二年五月三一日までの間につき、一か月金一万五、〇〇〇円
(2) 昭和三二年六月一日から昭和三四年一二月三一日までの間につき、一か月金二万二、〇〇〇円
(3) 昭和三五年一月一日から同年一二月三一日までの間につき、一か月金二万九、五〇〇円
(4) 昭和三六年一月一日から同年一二月三一日までの間につき、一か月金三万一、五〇〇円
(5) 昭和三七年一月一日以降一か月金三万三、五〇〇円
2 しかして、原告は被告に対し、前記(1)、(2)については昭和三二年六月六日到着の、前記(3)については昭和三四年一二月三一日到着の、前記(4)については昭和三五年一二月三〇日到着の、前記(5)については昭和三六年一二月二八日到着の、各内容証明郵便により、それぞれ増額の意思表示をした。
(三) 右のとおりの増額により被告が原告に対して支払うべき昭和三一年八月一日から昭和四四年九月二〇日までの本件建物の賃料合計は金四六六万七、二五二円となる。
(四) よって、原告は被告に対し、右賃料合計金四六六万七、二五二円およびこれに対するその遅滞に陥った後である昭和四四年九月二一日より支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する答弁
(一) 請求原因第一項の事実は認める。
(二) 請求原因第二項(1)の事実のうち、原告主張のころ、本件建物の賃料が原告主張のような金額になったことは認めるが、その余の事実は否認する。同項(2)の事実は認める。
(三) 請求原因第三項の事実は否認する。
三 抗弁
(一) 原、被告間の本件建物賃貸借契約は、昭和三四年四月合意解約され、そのころ被告は原告に対し、本件建物を明渡したので、被告において右明渡後の賃料支払義務を負ういわれはない。
(二) かりに、右事実が認められないとしても、本件建物の賃貸借契約には、賃借人たる被告の都合により契約を解約せんとするときは六か月以前に賃貸人たる原告に通知するものとする旨の特約があるところ、被告は昭和三四年四月原告に対し右解約の通知をしたので本件建物の賃貸借契約は同年一〇月をもって期間満了により終了した。したがって、被告において、爾後の賃料支払義務はない。
(三) 本件建物は地代家賃統制令の適用される建物である。すなわち、本件建物は、大正六年四月二〇日建築にかかるものであり、床面積延べ面積は八九・二五平方メートルで、事業用に使用しているものではない。したがって、原告が主張する賃料増額請求は、統制額を上まわる不法なものであって無効である。地代家賃統制令に基いて計算すれば本件建物の賃料は一か月金九四〇円一四銭である。
(四) 原告の本訴請求は権利の濫用であり許されるべきものではない。すなわち、被告は昭和三四年七月、原告に対し、本件建物を当時の賃料を支払って明け渡したい旨申し入れたが、原告は当時本件建物が老朽化し雨もり等が甚しく他に賃借人もなかったところから、被告において金四〇万円を支払わなければこれに応じられないとして、被告の右申入を拒絶した。原告の右のような態度は、被告に多額の金員の支出を要求して被告を困惑させ、被告に対し本件建物に居住するのをやむなくさせ、その間に不当に多額の賃料を利得しようとする意図によるものであり、かかる事情に基く原告の本訴請求は明らかに権利の濫用である。
(五) 被告は、原告の承諾のもとに本件建物を次のとおり修理し、合計金四九万四、〇〇〇円を支出した。
1 昭和三〇年五月 雨戸の取替費用 金五万四、〇〇〇円
2 同月 板塀、門柱取替費用 金一三万円
3 昭和三三年一月 一階廊下の根太床板、建具取替費用 金二一万円
4 昭和三五年四月 屋根の雨もり修繕費用 金一〇万円
右修繕費合計金四九万四、〇〇〇円は賃貸人たる原告の負担すべき必要費であるから、被告は原告に対し、右同額の費用償還請求権を有する。そこで、被告は、昭和四四年三月七日の本件口頭弁論期日において、右債権をもって、原告の本訴債権とその対等額において相殺する旨の意思表示をした。
四 抗弁に対する答弁
(一) 抗弁第一、二項の事実は否認する。
(二) 抗弁第三項の事実は否認する。被告は本件建物のうち、一階の玄関から階段までの九・〇九平方メートル(二・七五坪)および二階三六・三六平方メートル(一一坪)合計四五・四五平方メートル(一三・七五坪)を事業用部分として使用していたのであるから、本件建物には地代家賃統制令の適用はない。
(三) 抗弁第四、五項の事実は否認する。
第三証拠≪省略≫
理由
一 請求原因第一項の事実は当事者間に争いがない。
二 ところで、被告は、原・被告間の本件建物賃貸借契約は昭和三四年四月ころ合意解約され、そのころ、被告において原告に対し本件建物を明け渡した旨主張するので、検討するに、なるほど≪証拠省略≫によれば、被告は、昭和三四年三月末ころ、本件建物より退去し、東京都港区芝白金今里町五五番地に転居したことを認めることができる(右認定に反する証拠はない。)けれども、一方、≪証拠省略≫を総合すると、前認定のとおり、被告は昭和三四年三月末ころ本件建物より退去したが、そのころ、原・被告間には本件建物の賃料の増額をめぐって紛争があり、原告より被告を相手方として東京簡易裁判所に対して賃料増額の調停申立がなされ、すでに同月一七日には第一回調停期日が開かれていたが、いまだ原・被告間に合意が成立するに至ってはいなかったこと、被告は本件建物を退去した後も本件建物の賃料を供託し、これが供託は昭和四四年一月分の賃料(昭和三一年八月から昭和三五年一月まで毎月金五、〇〇〇円あて、同年二月から昭和四四年一月まで毎月金二、四九八円あてを各供託)まで引き続きなされたこと、被告は、本件建物を退去した後も、暫く自己が経営していた美容院の寮としてこれを使用し、その後、前記調停について原告との折衝を委任した訴外鈴木直逸に対して本件建物の管理を依頼し、爾来本件建物には右訴外人およびその長女、次男ならびに右訴外人の妻の妹夫婦などが入居するに至ったこと、しかして、前記調停は昭和三五年一月不調になり、昭和四二年九月二五日本件訴が提起されるに至ったが、当初本件訴は被告および前記訴外人らに対する本件建物の明渡請求をも含まれていたところ、昭和四四年九月二〇日右訴外人らが本件建物より退去してこれを原告に明け渡し、同年九月三〇日付書面をもって、被告訴訟代理人弁護士森本正久より原告に対し、「貴殿が横山乃ほか四名に対し明渡を求められる建物物件は貴殿の要求により昭和四四年九月二〇日貴殿に明け渡しましたので念のためお知らせします。」旨通知し、これに応じ、右明渡部分は原告において同年一一月一八日これを取り下げた(右取下の事実は当裁判所に顕著な事実である。)ことなどの事実を認めることができ、(≪証拠判断省略≫)これらの事実をもってすると、前認定のとおり被告において昭和三四年三月末ころ本件建物より退去したことをもって、いまだ本件建物の賃貸借契約が合意解約されたとの資料とすることはできず、他にこの点に関する被告主張事実を認めるに足りる証拠はない。
三 次に、被告は、その主張のような特約により、昭和三四年四月原告に対し解約の通知をなしたので、本件建物の賃貸借契約は同年一〇月をもって期間満了により終了した旨主張するので、検討するに、なるほど、≪証拠省略≫によれば本件建物の賃貸借契約には被告主張のとおりの特約の存在が認められ、そのうえ、≪証拠省略≫によれば、被告において、昭和三四年三月末ころ、原告の妻に対し本件建物から他に引越す旨の挨拶をなし、さらに同年四月付の郵便葉書により原告に対し引越しの挨拶状を出したことを認めることができるが、前記二の認定事実とも対比すると、これらをもって解約の通知と認めるには不十分であり、他に被告主張のころ、被告において原告に対し、本件建物賃貸借契約の解約を通知したことを認めるに足りる証拠はない。
四 しかして、本件建物の賃料が、昭和二八年一月、一か月金三、三三三円になったこと、原告が、被告に対して請求原因(二)、2記載のとおり本件建物の賃料を増額する旨の意思表示をしたことは当事者間に争いがなく、右賃料はその後の経済事情の変動により適正を欠くに至ったものというべきであるから、右原告の賃料増額の意思表示により後に説示するとおりの相当額に増額されたものといわなければならない。
五 ところで、右相当額について判断するに、まず本件家屋の賃料につき地代家賃統制令による統制の存否が争われるのでこの点について検討する。
≪証拠省略≫を総合すると、本件建物は大正八年ないし一〇年ころ新築されたものであるが、被告の先代訴外川嶋善作は大正一四年八月二〇日本件建物を原告の先代訴外山寺春吉から美容院経営の目的で賃借し、そのころより同所において美容院を経営し、主として本件建物二階部分全部をその事業用店舗として使用し、階下部分の一部を居住用にあてこれに居住していたが、昭和一六年四月一七日右訴外川嶋の死亡により被告が本件建物に対する賃借人の地位を承継した後も、被告が右訴外人のあとをついで前記美容院を経営するとともに、従前どおり本件建物を使用していたこと、本件建物は一階の床面積四七・九三平方メートル(一四坪五合)(ただし現況は五四・五四平方メートル(一六坪五合))、二階の床面積は三八・〇一平方メートル(一一坪五合)であることを認めることができ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
右事実によれば、本件建物において被告が美容院の店舗として使用していた事業用部分は少くとも二三平方メートルをこえるものであるから(地代家賃統制令施行規則第一一条)、本件建物は地代家賃統制令第二三条第二項但書の併用住宅ではなく、同条第二項四号にいわゆる店舗にあたるものというべく、したがって、本件建物には地代家賃統制令の適用はないものというべきである。もっとも、前記一に認定したとおり、被告は昭和三四年三月末ころ本件建物より退去し、その後、前記一認定のとおりの経過で前記訴外鈴木らが本件建物に入居するに至ったものであり、おそくともそのころには本件建物は被告の経営する美容院の事業用としては使用されなくなったことを窺い知ることができるが、≪証拠省略≫によれば、右訴外人らの本件建物の入居については、原告の承諾がなかったことが認められるのであるから(≪証拠判断省略≫)、これをもって地代家賃統制令の適用を受けるに至ったものとは解すことはできない。けだし、右のような場合、再び地代家賃統制令が適用されることになれば、場合によれば賃貸借契約の解除原因(無断転貸)ともなりうる賃借人たる被告の行為を不当に保護することになるうえ、賃借人たる被告の一方的な行為によって、地代家賃統制令の適用が左右されることになり、いたずらに法律関係を複雑にするからである。
六 そこで進んで本件建物の相当賃料についてみるに、鑑定人常田中博の鑑定の結果によれば、本件建物の相当賃料は、昭和三一年八月一日の時点において一か月金五、六九〇円、昭和三二年六月一日の時点において金六、三七〇円、昭和三五年一月一日の時点において金一万二、八〇〇円、昭和三七年一月一日の時点において金一万五、六〇〇円であることが認められ、右鑑定に際し考慮された賃料査定の諸要因をもってすれば、本件全証拠によっても右認定額を左右するに足りない。
ところで、原告が、被告に対してなした本件建物の賃料を増額する旨の前記意思表示は借家法第七条に基く賃料増額の請求であることは明らかなところ、右は形成権の行使であるから賃料の増額を請求する旨の意思表示の趣旨、内容にしたがって、これが被告に到達した日、或は将来の一定の日から、賃料増額の効果が生ずるものと解するのが相当である(最高裁判所昭和四五年六月四日判決、集二四巻六号四八二頁参照)から、右認定事実と当事者間に争いのない請求原因(二)、2記載の事実によれば、本件建物の賃料については昭和三二年六月六日から一か月金六、三七〇円、昭和三五年一月一日から一か月金一万一、六〇〇円、昭和三六年一月一日から一か月金一万二、八〇〇円、昭和三七年一月一日から一か月金一万五、六〇〇円に、それぞれ増額の効果が発生したことが明らかである(昭和三一年八月一日から昭和三二年六月五日までの賃料は右借家法第七条賃料増額の意思表示の性質に照らし、同月六日の意思表示によって遡及してその増額の効果が発生するものではない。)。
そうだとすると、被告が原告に対して支払うべき、本件建物の賃料は、昭和三二年六月六日から昭和三四年一二月三一日までの分について金一九万六、四〇八円、昭和三五年一月一日から同年一二月三一日までの分について金一三万九、二〇〇円、昭和三六年一月一日から同年一二月三一日までの分について金一五万三、六〇〇円、昭和三七年一月一日から昭和四四年九月二〇日までの分について金一四四万五、六〇〇円、合計金一九三万四、八〇八円になること計数上明らかである。
七 しかして、被告は、原告の本訴請求は権利の濫用であり、許さるべきものではない旨主張するので、検討するに、≪証拠省略≫によれば、原告は、昭和三四年二月ころ被告を相手方として東京簡易裁判所に対し本件建物の賃料増額の調停を申し立て、その際増額分として金四〇万円の支払を被告に請求したことがあったが、しかし、原告の右要求が、被告主張のような動機ないしは意図によるものであるとする点については本件全証拠によるもこれを認めるに足らない。
したがって、被告の権利濫用の抗弁は採用の限りではない。
八 さらに、被告は、原告の承諾のもとに本件建物を修理し、合計金四九万四、〇〇〇円を支出したが、これは本件建物の賃貸人である原告の負担すべき必要費であるから、被告は原告に対し右と同額の費用償還請求権を有するとして、これと原告の本訴債権と相殺する旨主張するので検討するに、≪証拠省略≫によっても、被告が支出したとする金員について結局明確さを欠き、したがって、これをもって被告主張事実を認めるに足りず、≪証拠省略≫中には、前認定のとおり本件建物に入居するに至った訴外鈴木直逸において本件建物の修繕等をなし、これにより被告において金二〇万円前後支出した旨の供述部分があるが、右訴外人が被告といかなる関係でこれを支出したかはさておき、右供述部分のみをもってしても、右訴外人が支出したとする金員について必ずしもその額が明確でないうえ、この点に関する≪証拠省略≫と対比すると、直ちに信を措くことができず、他に前記被告主張事実を認めるに足りる証拠はない。
したがって、被告の相殺の抗弁もまた、採用することができない。
九 以上判示したところによれば、被告は、原告に対し、本件建物についての昭和三二年六月六日から昭和四四年九月二〇日までの賃料合計金一九三万四、八〇八円およびこれに対する原告の請求する遅滞に陥った日の後であることが明らかな昭和四四年九月二一日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があることが明らかである。
よって、原告の本訴請求は右の限度で理由があるから正当としてこれを認容し、その余は理由がないから失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条本文を、仮執行の宣言につき同法第一九六条を、それぞれ適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 松村利教)
<以下省略>